新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、延期しておりました古事記学会・風土記研究会合同シンポジウム、ならびに令和四年度古事記学会大会(研究発表会)を、オンライン方式で開催いたします。
期日
令和4年6月18日(土)~19日(日)
期日
オンライン開催(Zoomを使用)
日程
6月18日(土)シンポジウム(午後1時~午後4時40分)
(総合司会)愛知淑徳大学教授 中野謙一
古事記学会代表理事挨拶 代表理事 神田典城
風土記研究会代表挨拶 代表 橋本雅之
講演①九州風土記の編纂と大宰府・再論
東京大学名誉教授 多田一臣
講演②古代大宰府の空間的世界―古代交通と大宰府の内と外―
筑紫野市歴史博物館館長 小鹿野亮
講演③伝承の重層と述作
京都大学名誉教授 内田賢徳
ディスカッション
皇学館大学教授 橋本雅之
6月19日(日)研究発表会
午前の部(午前10時~午後12時10分)
(総合司会)フェリス女学院大学教授 松田 浩
発表①『古事記』における「黄泉」について―漢語の受容を中心に―
國學院大學大学院生 リュウサイモン
(司会)奈良県立万葉文化館主任研究員 阪口由佳
本発表は、「黄泉」という漢語に着目し、漢籍における語義の変化を整理して『古事記』がどのように漢語「黄泉」を受容したのかを明らかにすることを目的とする。
古代日本は、外国から当時最新の技術や文化を取り込みながら、自国の体制や文化を形成していたが、決して無条件で受け入れたのではないと考えられる。当然のことながら、『古事記』編纂にあっても、漢語の利用については、同様のことが言えるであろう。
まず、先行研究の指摘に導かれつつ、漢籍における「黄泉」から『古事記』の世界観を考察する。中村啓信は和語の「ヨミ」を漢語の「黄泉」に翻訳した以上、漢籍における「黄泉」の語義を無視することができないと指摘した。しかし、その根拠となる諸漢籍の成立時代は様々であり、それぞれの漢籍における「黄泉」の語義を同一視して、解釈することには疑問に残る。
そこで、『古事記』編纂時の官僚の学問形成や漢籍の影響を把握するため、律令に定められた漢籍のテキストや注釈書を確認する必要があろう。漢籍ごとの「黄泉」の変化を確認すると、秦を境に「黄泉」の語義が変化していることが確認できる。先秦の漢籍における「黄泉」は「地下世界」であり、「死後の世界」とは言い切れない。漢以降の漢籍は、「黄泉」に明確に「死後の世界」・「再生の循環」の意味が加えられた。さらに、六朝期には、死者復活の物語があり、「黄泉」・「死後の世界」への理解が大きく変化したと考えられる。それに対し、『古事記』における「黄泉」は、先行研究で指摘されるとおり「死後の世界」であるが、「地下世界」として捉えがたい表現が見られる。また、「再生の循環」や「復活」の要素は見られないため、それらの意味は受容していないと考えられる。以上を踏まえると、『古事記』における漢語「黄泉」の独自の受容態度を指摘することができるのである。
発表②『古事記』「軽太子物語」の背景―伝承氏族と銅鏃の関係性について―
学習院大学大学院生 長見菜子
(司会)奈良県立万葉文化館主任研究員 阪口由佳
『古事記』允恭記に、允恭天皇の皇太子〈軽太子〉とその同母妹〈軽大郎女〉の悲恋物語がある。この物語は主に近親相姦が問題にされるが、政争の際、主要人物が用意した武器に詳細な注釈が付されている点も看過できない。『古事記』において、武器に注釈が付された物語は他になく、「軽太子物語」独自の特徴として注目に値する。
本発表では、「軽太子物語」で武器の仔細が語られた理由を、物語のキーパーソンである大前小前宿禰の属する〈物部氏〉、物語を伝承したと目される名代の〈軽部〉といった氏族・部民の持つ性格や職掌から検討する。物部氏は地方の中小豪族と擬制的な血縁関係を結び、献上される武器や祭祀具を管理することで強大な力を得た軍事貴族で、一部の軽部は物部系氏族の管掌下にあった。物部氏が有する性格は、政争を背景とするこの物語と深く結びついていると考えられる。
また考古学上では、雄略天皇在位時より前にあたる五世紀前後に、大規模な金属技術の改革が起こったことが知られている。技術改革は金属製品の製作に大きな変化をもたらしたが、最もその影響を受けた者達は、金属製品にまつわる物部氏、および配下の氏族・部民であったといえる。伝承氏族の性格を考慮すれば、この歴史事情が雄略記の前段にある「軽太子物語」の構成に影響を及ぼした可能性は高い。
なお、物語で詳述されるのは〈軽箭・穴穂箭〉と称される矢、ならびに付属する鏃である。多様な武器があるなかで、なぜこれらが強調されたのか。歴史的背景を取り込み物語を形作った伝承氏族の意図をふまえつつ、新たな観点をもって「軽太子物語」の特異性を検証してゆきたい。
発表③『古事記』「ときじくのかくの木実」将来説話における「縵」と「矛」の意義
國學院大學特別研究生 藤嶋健太
(司会)京都精華大学教授 是澤範三
『古事記』中巻・垂仁天皇条には、「ときじくのかくの木実」将来説話が記載されている。天皇の命を受けた多遅摩毛理は木の実を求めて常世国へ赴き、「縵八縵矛八矛」を持ち帰る。この「縵」と「矛」については、主に形状に関する説が多くみられる。本居宣長『古事記伝』は、「縵」は枝に葉が着いた状態のもので、「矛」は葉を取り除いて実だけにしたものとする。また、武田祐吉は、「縵」を「蔓のように輪にしたもの」とし、「矛」を「直線的なもの」としている(角川文庫『古事記』)。上代文献において「縵」字は鬘を意味するものであり、「矛」は文字通り矛を指しているとすれば、武田説のように考えるべきものである。
形状に関する先行説はあるが、その意義についてはあまり論じられてこなかった。根来麻子は「神事にかかわる装飾具としての役割があった可能性」(「『古事記』における「登岐士玖能迦玖能木実」の位置づけ」)を指摘しているが、具体的にどのような役割があるのか、なお検討する余地がある。本発表では、上代文献における鬘と矛の使用例から、木の実を「縵」と「矛」にした意義を考察していく。
鬘は、記紀の天石屋神話において、アメノウズメの神懸に用いられている。また、持統紀における天武の殯宮儀礼のなかに「華縵」を進上した記事があり、これらの鬘は祭祀に用いられる祭具であったとみられる。なお、崇神記には、神の気を収めるために矛を坂の神に祀る記事があり、矛も祭具としての性質を有しているとみることができる。更に、『万葉集』四二八九番歌に、「青柳の上枝攀ぢ取りかづらくは君がやどにし千年寿くとそ」とあるように、植物を鬘にすることには、その繁栄が永く続くことを寿ぐ意味がある。つまり、「縵」と「矛」は、単なる装飾品や武器ではなく祭具であり、生命力を象徴するものだと考えられる。そこには、垂仁の更なる長寿を祈念する意図があったと考えられるのである。
―休憩―(午後12時10分~午後1時)
午後の部(午後1時~午後2時30分)
発表④『常陸国風土記』行方郡藝都里条の主題について
京都女子大学非常勤講師 衛藤恵理香
(司会)奈良大学准教授 鈴木 喬
『常陸国風土記』行方郡藝都里条は、倭武天皇に逆らった寸津毗古が天皇に殺害されるが、天皇に従うことで放免となった寸津毗売を契機とした天皇の心情が野の地名起源となったことを記す。しかしながら、地名起源譚であるはずの本条が「藝都」という里名の由来を説かないことについて、谷口雅博氏は、
芸都の里にまつわる寸津毗古・寸津毗売の話を載せているゆえ、当然芸都の地名起源説話を語るものと思わせながら、結尾記事を欠いているのみならず、説話の末尾が宇流波斯之小野の地名起源となっている。「芸都」に対して結尾記事を欠き、「宇流波斯之小野」に対して冒頭記事を欠くという形になっている。(「常陸国風土記」『風土記を学ぶ人のために』第五節、世界思想社、二〇〇一年)
のように的確に本条の構成を指摘した。本条は、地名起源譚のあり方を捉えるうえで小さくない意味があるだろう。本条の結びについて現行諸注釈書では、寸津毗売の従順な態度を天皇が「欵」(「款」の俗字)、喜ぶとともに、「恵慈」したことで野の名は、「宇流波斯之小野」と命名されたと理解されてきた。しかしながら、ここで天皇が喜ぶ意の「欵」字は、菅正友本・武田本・松下本ともに「疑」とあったが、後に西野宜明校訂本『訂正常陸国風土記』が「欵」と改め、現行諸注釈書はすべてこれに従い「欵」字を採る。「疑」字が「欵」と校訂されるのは、「疑」の意が文脈上、相応しくないと捉えられたことによるだろう。「欵」の校訂が妥当かどうか検討することは、本条の地名起源譚としてのあり方やその表現性と無関係ではないと考えられる。
叙述における用字を検討することを通して、本条は、地名起源譚として天皇による祝福を記念するものと結論付ける。
発表⑤『豊後国風土記』総記条の文脈理解
宮崎県立看護大学教授 大館真晴
(司会)奈良大学准教授 鈴木 喬
『豊後国風土記』総記条は豊国の国名起源を語るもので、『豊後国風土記』(田野条)・「山城国風土記逸文」などに代表される「餅の的」説話の類話として理解されてきた。先の「餅の的」説話は、餅が白鳥となり飛び去るという内容であるが、当該条は飛来した白鳥が餅となり、その餅がさらに数千株の芋草に変化するという記述となっている。この変化について、先行研究は農耕(白鳥、稲作、芋、畑作等)との関わりから論じる傾向が強く、柳田国男(「餅白鳥に化する話」一九三四年)以降、様々な論が積みあげられてきた。
近年、山田純氏は先の研究手法とは一線を画し、『豊後国風土記』をめぐる出典論の進展をふまえ、問題とする変化について、漢籍を前提とした記述の方法であると指摘した(「『餅の的』と連想」二〇一三年)。具体的には当該条の「白鳥」「餅」というキーワードの提示は、『文選』(蜀都賦)にある表現、「蹲鴟」(芋)を読み手に想起させるためのものと指摘し、最終的には典拠である『文選』(蜀都賦)を想起させるためのものと指摘する。
本発表も漢籍との関わりの中で当該箇所の文脈を理解していくという山田氏の手法と同様のものである。その考察では、新たに「花葉冬栄」という表現に注目したい。なぜなら当該条において「豊国」の国名起源に直接関わる表現は「豊草」であり、その「豊草」を導き出す文脈は「花葉冬栄」と表現される「草」の字が加えられた「芋草」についてのものだからである。つまり、当該条の核心はこれまでの先行研究が重視してきた地中の「芋」にあるではなく、冬ながら葉が茂り花が咲くという地上の数千株の「芋草」にある。
本発表では漢籍との比較検討から、当該条の「芋草」「豊草」を景行天皇の徳に応じた瑞草(霊草)であると新たに位置づけ、白鳥からの変化については、国名の命名者である景行天皇の徳を語るための文脈として理解したい。
閉会の辞
上智大学教授 瀬間正之
総会(午後2時40分~午後3時30分)